シャマラン流アメコミ世界を描く「ミスター・ガラス」この世はヒーローとヴィランだけでは語れない
1月17日は「ミスター・ガラス」を観てきた。
この世はヒーローとヴィランと、彼らを支配する者たちがいる @ 「ミスター・ガラス」
M.ナイト・シャマラン監督の新作映画「ミスター・ガラス」を観てきた。
2001年に公開された「アンブレイカブル」の続編。
その「アンブレイカブル」は公開当時観たっきりで、ストーリーはなんとなく覚えているものの、詳細は忘れてしまったので、直前に予習をした。
これ、本当に予習して正解だった。
18年ぶりにも関わらず、「アンブレイカブル」後の話で、予習していなかったら理解できなかったと思う。
そもそも、「アンブレイカブル」というのは、シャマラン流アメコミ作品で、どんなことがあっても折れない身体を持ち、触れた人の過去が見えてしまうデヴィッド(ブルース・ウィリス)がヒーローとして目覚める話。
それと同時に、デヴィッドに接触してきたミスター・ガラス(サミュエル・L・ジャクソン)が「自分の願望を叶えるためなら他人を犠牲にすることもいとわない」というヴィランの側面を描いていた。
そこへ、24人の人格を持つケヴィンを描いた「スプリット」を合流させシャマラン・ユニバースとして作られたのが、この「ミスター・ガラス」だった。
その「ミスター・ガラス」は「もしもシャマランがアメコミ映画を作ったら」という作品だった。
通常、MARVELやDCで描かれているアメコミでは、人とは違う特殊能力を持った人間が登場する(例えば、X-MENのように)。
「人と違うことは神から与えられたギフト」とし、特殊能力を持った人たちがヒーローとなり、その素晴らしい能力で世界を救うことができることを描いてる。
そのように「人と違うことは素晴らしいことだ」と描くことで、マンガの読者であるいじめられっ子や、オタク、引きこもりの人たちを励ましている。
そして、その「人と違う能力」の使い方を間違えると、ヴィランのようになってしまう危うさを描いていてる。
それは「排斥されたマイノリティ」が「憎悪」という負のパワーを使ってテロリストになってしまうことがいい例だ。
しかし、シャマランが思う世界は、そういう二重構造ではない。
この世を支配しているのは、ヒーローでも、ヴィランでもない、もっと強い力を持つ者だと、この映画では描いている。
たとえば、政治家を裏で操るシンジケートのような存在。
頭が良すぎるミスター・ガラスは、その存在に気付き、ある仕掛けをするのだ。
ということは、例えば教室の隅っこでアメコミを読んでいる子が、マンガのヒーローに励まされ、「僕にも生きる道があるかもしれない」と思ったところで、「人と違った特別な能力を持つ人間などいらない」という者によってひねりつぶされてしまう現実を描いている。
まぁ、つまりはシャマラン流のアメコミ否定映画とでも言おうか。
しかし、シャマランとしては、そんなマイノリティ(能力者)への希望を最後に残して終了している。
その世界観がとても面白い映画だった。
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『ミスター・ガラス』面白かった!アメコミではヒーローがヴィランを倒して世界は平和になるけれど、現実世界では、そんなキレイごとでは済まないよって話だった。人と違うことは本当に神からのギフトなのか。生きづらいだけじゃないのかと思った https://t.co/NdHaI6AWVV
— toe@とにかく映画が好きなんです (@pharmacy_toe) 2019年1月21日
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